昭和50年08月31日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 信心はみやすい、信心はいよいよ本心の玉を磨く事であり、いよいよ日々の改まりが第一と仰せられる。改まる事に磨く事に喜びが湧き、楽しみが出来るようになったら信心はみやすうなるです。だから信心はみやすいものということは、金光教でいう信心とは本心の玉を磨くということ、日々の改まりが第一という、このいうならば眼目と言うか、それを二つ合わせて、いよいよ和賀心という和らぎ賀ぶ心が育ってくる訳です。
 ですから、それ以外の所に目指しがあったり、目的があったりしたら信心は大変難しいものです。とても私共では出来ん、暇もなかし、お金もかかるしということになります。どうでもおかげを頂かんならんからというその、おかげを頂かんならんからと言う信心では、これはいつまでたっても信心がいや、おかげは頂いてもみやすいものにはなりません。信心はみやすいもの、教祖が仰る信心とはそういう信心なんです。
 ただ拝んでおるとか、参っておるとかという事が信心じゃない、信心とはいよいよ、限りなく自分が美しゅうなっていく豊かになって行く、それには曲がっておるところは真っ直ぐしていかにゃならん、汚れておるところは、その汚れを落としてもいかなければならん、日々の改まりが第一であり、本心の玉を磨くと言う事が信心だと言うのです。そういう在り方にならせて頂く時にです。
 いよいよ信心はね楽しいみやすい、いわゆる心が豊かに大きゅうなって行く、有り難い有り難い楽しい、楽しいで信心が進められるんです。だから信心はそうなってくる時に信心はいっちょん難しいことじゃないのです。今朝私はご神前にご祈念を終わらせて頂いた時に頂きましたのが、女の方が一生懸命綺麗なお化粧をしておる、そして髪をこういっておる、そして櫛をさしたり、かんざしをさしたりしておる、あの昔風のいうなら髪を結うておるところを頂きました。
 はぁ今日、これは、今日の御理解やろうが、何節を頂くだろうか、どこを頂くだろうかと思うておったら、この御理解69節を頂きました。どうでしょうか、女の方がお化粧をされる前に、ほんに女子ちゃめんどくさかと思うて、お化粧をする人があるだろうか、きれいに髪を結あげる時に、もうほんにもう髪がせからしかけんって、坊主になってしまおうかちうごたる人があるじゃろうか、もうせからしか、今度散髪屋に行ってさっぱりっち頭をつんでこうと、じゃないでしょう。
 それは自分も鏡の中に写る自分が、段々綺麗になっていくのですから、髪を結上げただけじゃない、それにはそれに似合うたかんざしも刺そう、くしも刺そうというのが、私は女心だと思うんです。私は丁度女の人が自分の顔を綺麗にしたり、髪を結あげたりするのがいわば楽しい、自分自身も綺麗になっていくから楽しいでしょうが、それを見る周囲のいうなら人達も、はぁほんとあっちはスキッといつも化粧がでけて、もうスキッとしてある、いわゆる人の目元もしません、又は自分自身も楽しい。
 丁度女が化粧をしたり髪を結上げたりね。又は自分の着物なら着物の着こなしなんかの、段々よくなって行く事が、自分でも着てから楽しいだろう、自分ながら化粧しながら楽しい、しかもそれを周囲の見る人もまた楽しい信心はね、ははぁ69節とはそういうことだと思わせてもらった。限りなく美しゅうなる事に信心の焦点がおかれなければ信心はいつまでたっても難しいです、それはおかげを頂くために一生懸命参る、最近のごたるは本当に癌が、見放された癌がおかげで手術もせずにおかげを頂いたとか。
 おかげでね、目が開いたとか、チンバがたったとか、本当におかげと言わにゃんおられん不思議な不思議な、いうならおかげを頂いてです、それが嬉しくないことはない、楽しくないことはないけれども、そういう時ばかりはないのです、信心とは。降る時もありゃ、照る時もある、吹く時もあるのです、ね。ですから、おかげに終始しておったら、これほど信心するのにどうしてこげなこつが起こるじゃろうか、もう神様いいかげんなもんじゃ、もう信心も止めようと言った様な事にまでなりかねないのです。
 けれども本心の玉を磨くとか、限りなく美しゅうなるとか、改まるとかということはです、そういう問題のたんびに自分が改まっていく、そういう難儀な問題があるたびに自分自身の心は清められていく、そういうたびに曲っとるのがまっすぐなっていくと言う様なおかげを頂くのですから、そこに豊かな心がいわゆる、信心が育っていかないはずがない、信心が育っていくということをもう嬉しゅうして、嬉しゅうして、楽しゅうして、楽しゅうしてということになるのです。
 だから、信心はみやすいものじゃと教祖は仰る、教祖が仰る信心とはそれなんです。昨日、久留米の佐田さんが、皆さんもご承知のように、あぁして一家を挙げて朝参りをなさる、ちょうど合楽が8年になりますから、合楽にこちらへ参りまして夏でしたか、寒でしたかの修行がありました、一月一家中でお参りをしようじゃんのうというて相談をされていく、あの時分は50日間でしたね、50日間お参りをされた。50日間お参りをしとる間に止められなくなった。
 そして8年間続いた、いうならば、信心がもう楽しいものになってきたんです。しかも、75、6歳になられますか、おばあちゃんは。もう一緒にやはりお参りをされる。先日なんかは、久留米の松影会というのがございます、この頃から大善寺教会で会合がありました。それであちらにおいでられたところが午前中の会合と思うとった所が、午後の1時からということであった。それからいっぺん帰ってこられる、そしてから、またいっとる訳です。それを送っていかれる。
 いうならば、息子さんである、恭造さんも私は素晴らしいと思ったけれども、そのおばあさんの意欲たりは素晴らしいと思いました。もう大概なもんが、しかももうやんがて80になろうかというおばあさんがです、ね、しかも、大善寺までも、しかもその行ったところが午後からだった、いっぺん帰ってきて、もういくめいちいうて、もう神ながらじゃったろうからもう行くめとこういうふうに言うところでしょうけれども、恭造さんが送るといわれる、なら行くというて、また行っておられた。
 2,3日前は、あちらはどこの教区は、筑水連合会の研修会がありました。朝倉あちらどこでしたかね、え夜須教会だったけ。夜須教会にいっとるわけです。本当に信心がね、もう楽しゅうしてこたえんという感じです。昨日、みなさん帰られてからすぐまた電話がかかってきた、奥さんから。今日はあなたもううっかりしてましてから、主人の誕生日でした、そのことの御礼のお届けをせずに帰りました。
 そしたら、あの長男の一人息子ですから、恵介さんが一人覚えとってから、ちゃんとその御礼のお届けに出てきておる。そして僕は今からお父さんに送るプレゼントをどこか買いに行くからという電話がかかってきて、あらぁ今日は誕生日じゃったというのに、それからまた新たにまた御礼参拝、朝親先生がお下がりになってから、ご飯をお召し上がる時にお豆腐が好きだから、とにかくお豆腐を買って、長女の典子さんが、ちょうどご飯に間に合うようにもってきた。
 そしたら午後、私午後の奉仕をさせてもらっとる時に、また奥さんが参ってみえた、今日は親先生、もう親先生この頃、あのそば寿司をお供えさせて頂いたら親先生が大変喜ばれたから、もう久留米のデパートには二軒ながら、もうどこ前駅のデパートに売っとったんです、デパートに売ってるもんと思ったところが、それはなんか出張仕出しかなんかだったらしいんです。だからどこを探してもなかった。だからもうとうとう探しきらんな、あの、うなぎを買うてきましたとこういうのです。ね。
 何もないそれが日々なんです、佐田さんのところの。親先生が喜ばれるその事に、例えばそば寿司を一つ買う為に久留米中あっちこっち回ってなかったから仕方がない、これはどうして、結局私の真心が足りなかったじゃろうかというて、いわれますから、そげんなんこつじゃなかろう、今合楽では、ね、この頃もう、4、5人の方が私が亡くなったというお知らせを頂いておられる。合楽で必ず変わった信心が飛躍する時は必ず皆さんが私が亡くなったというお知らせを頂かれます。
 というのはね、私がもういよいよ、何べんも何べんも生き変わり死に変わりというが、ね、例えて申しますなら、小学校の時を卒業して、小学校の信心、中学校の信心、高校の信心というんでしょう、そういう例えばその節々にです、次の信心に飛躍する時に改めて私が、いうならば、大きく自分というものを空しくしていくという事に精進する、私が死んだというのはそれは私が空しゅうなることに一生懸命勤めておることだといわれるほどしのことであるから、私も、今、いうならば、骨が折れておる。
 それはそば寿司がおいしくてよかったけれども、あなたが久留米中探したけれどもなかったけれども、うなぎをこうて来たという事は、やはりそれのほうが神ながらだっただろう、そばということはおかげがそばというふうで、まぁ皆さんが喜ばれますけれども、そういうおかげを頂く前にはそれ前に、その元気付けしとかにゃいかん、だから、うなぎのほうがやっぱ元気が付くというのですから、やっぱ今日のうなぎのお供えはうなぎの方がほんなこつじゃったじゃろうねというて、まぁいうたことでした。
 まぁ私もそう感じました。というように例えば、佐田さん一家の信心、しかも昨日の一日の佐田さんの信心を聞いて頂きましたけれどもです、信心が本当にみやすうして楽しゅうして有り難うしてとなかなければ出来ることじゃありませんよね、なんか特別なにかあってですよ、ね、今日はどうでもこうで親先生にそば寿司をお供えしようというのじゃなくて、なんでもない、平日がそうなんです。さぁ親先生のお食事前に何か美味しいもんがでけたら、さぁちょいとというて子供にでも持たせてやる。
 子供もまた喜々として、それを持ってお参りをしてくる、もう70幾つになるおばあさんが、やはり若い者と一緒に、こうして朝参りを続けられる、しかも外で、いろいろ信心の会合がある時には、もう必ずというていいぐらいに出席しておられる、とてもおかげを頂かなんけんぐらいな事では、ちょっと出来ることじゃないです、ね、今の大善寺に行ってから、さぁ午前中行ってから、また昼からまで行こうと、言った様なものは生まれてきませんです。
 8年間、朝参りを一家でさせて頂いておる内に一家中の者が信心になるだけじゃなくて、一家中の者がもう限りなく美しゅうなっていく、問題が問題でなくなってくる、一家中の者が勢を揃えて信心させて頂いておる、その8年間の間に、風にも会われた、交事故にも会われた、ね、大変な大欠損をされるようなこともあった、それがね、一つもそういうような、例えば、信心しよってどうしてと言った様なことが起こってもです、それをむしろおかげにしていっておられるという所に佐田さんの信心があり。
 今日、皆さんに聞いて頂きたい所はです、信心は見易いものという信心とは、教祖が仰る信心とは、限りなく美しゅうなっていくということ、信心とは本心の玉を磨くものぞや、信心とは日々の改まりが第一ぞという、そこんところに眼目のところに焦点をおいて信心を進めていくならば、もう必ず絶対楽しいもの、いわゆる、信心がみやすうなってきます。問題が起こってもその問題を通して改まる、その問題を通して、いよいよ、きれいになっていこうと勤める。
 それはちょうど、女の方が化粧をしたり、髪をゆいあげたり、しかも、その上には簪(かんざし)をさしたり、櫛をさしたりして、飾りをしていくことに自分自身も鏡の中に写る自分を見て楽しかろうように、また周囲の者もそれを見て、やはり、気分の悪いはずはない、やはり、楽しませれるということなんです。女の人が化粧せんならん、女の人が髪を結わんならん、へぇ女に生まれたほんな、(   ?    )ように、信心もやはり同じ事、自分の信心の髪をゆいあげていく。
 自分の信心をいよいよお育てを頂き、成長のおかげを頂かせてもらう、その楽しさということはです、ちょうど、髪の飾りをしたり、化粧をしたり、させて頂く様なものではなかろうか、そういう、こういうならば、日にちの信心に現しておられる、まぁだれかれと言いたいところですけれども、佐田さん一家のことを例をもってです、続けておられる8年間、いうなら朝参りが続けておられる、本当にもう苦しゅうしてこたえん、もうちょいと難儀なこっじゃある、出ると金は要る。
 と言う様な事ではない証拠にです、日の内に何回でも、やはり、お参りがでけておられる、例えば、ならおいしいもの一つでけても、はぁ親先生にとこう持っていけれるその心というものがね、自分自身の心がいよいよ親先生のおかげでこんなに育っていきよる、美しゅうならせて頂きよるという思いがあるからこそ、楽しゅう、有り難うでけるのです。皆さん、信心のね、眼目をどうでも教祖が仰るところの信心は見易いものという信心、見易い信心とはならどういう信心かと。
 参った拝んだおかげを頂くためにという信心は教祖が言われる信心ではない、そういうことになっていきゃ、この御理解の中にあるように、わが心を奉れれるような信心もでけてくるはずです。人が助かることの為に、人が喜ぶ事のためならばです、少々の体の犠牲、お金の犠牲ぐらいは問題ではないほどしに、有り難うなっておられるという、いっておられるというその事実をね、聞いて頂いて今日は皆さんの信心のもう参考というよりもね、そういう生き方をです。
 いよいよ自分一家、または自分の信心に頂いていかなければ信心はいつまでたっても難しいです。おかげを頂いてちょっと楽になるともう信心がぐずつきます、また、そうではない、信心しよって、なんか困った事どん起こってくると、これほど信心するとにと言った様な事にもなりかねません。それこそ、降ろうが、照ろうが、とにかく有り難いという信心に進んでいけれるということ。
 信心は本心の玉を磨くもの、日々の改まりが第一、限りなく美しゅう豊かになっていくということが信心だという時に、いっときだってです、もう、昨日お風呂入ったけんで今日は入らんでよかちいうことはない、また、今日は今日で汚れておる、それをさっぱりしていく事が楽しく、有り難くなってくるような信心を一つ身に付けていきたいですね。
   どうぞ。